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いのちのかがやき エスニックとの出会いは、高校三年生の時、東京の予備校に通うために奥飛騨から上京し、横浜中華街の親せきの家に居候した時だった。30年前の中華街は、それもうオドロオドロしく怪しい街だった。生まれて初めて体験した別世界。当時は「危ない刑事」というドラマのロケが時々あり、中国人マフィアのすったもんだ劇をよく撮影していた。それがとても似合う街でもあった。私は毎日、中華街を通りながら、笑いのツボを得た極彩色の中国雑貨に夢中になり、マリンタワーの下の洋風のお店で売られていたギリシャタイルなどの西欧雑貨や中近東のガラス雑貨にも心が奪われていた。 その後、学生時代を東京で過ごしたが、1988年、エスニックショップ・チャイハネの母体である横浜のアミナコレクションに勤めるため、私はまたあの中華街に舞い戻ってきた。それからアミナを退職するまでの7年間、あの街は、私の身体の血の中の隅々にまで、エスニックを浸透させてくれたのだ。 アミナ時代では、プリミティブの真髄を叩き込まれた。太陽、月、星、宇宙、地球、自然、生命体…そしてそれらを崇拝するべく渾身の力を降り注いで創られる民族の、人間としての生きている証し。その溢れる精気は、まさに、いのちのかがやきそのものだ。会社は方針的にエスニックを基調としていたので、私たちは何が何でも毎日エスニック柄を学び、そして描き続けた。その時に得た世界の民族の文様知識は、今の私の礎となっている。 余談だけれども…、30年近く前の当時のチャイハネは、従業員がわずか20人くらいの小さなパパママストアのようなお店だった。今じゃ、びっくりするくらい巨大になったけれど。私たち子供が、毎日活発に泣き笑いケンカしたりの、チャイハネ学校みたいだったな。 私は、そのアミナを辞めてゆいガイアを立ち上げてからも、しばらくの間はプリミティブの世界を表現し続けた。私の創造の源だったからだ。というか、それを描くことが私自身、とても楽しかったのだ。 ところが、なぜか、なぜか、そのエスニックが2007年頃を堺に、突然売れなくなってしまったのだ。私自身の力不足もあり、日本の去りゆくブームも拍車をかけた。あれほど脚光を浴びていたエスニックが…。そのため、しばらくその世界を遠ざけるようになり、私は徐々にエスニックの筆を止めてしまった。 しかし近年のゆいガイアデザインは、一方方向に偏っていると批評されることがある。その批評は気にはなってはいたが、つい避けてしまっていたエスニック。アースの世界。それが昨年あたり、心機一転してそろそろここでひとつ、またふんばって描いてみようか、と思うようになった。 なぜだろう…。時々、ふと懐かしい空気や風景に出合った時、すーっと目を閉じて思う。もう一度、あのときに感じた大地に息づくいのちの明かりを灯してみたい、と。 ただ、ただ、私自身の原風景に会いに行きたいがために、なのかもしれない。 描いている時の、なんと楽しかったことか!どんなに時を経ても色あせない民族のモチーフ、世に知らせた数多くの原始文様は、今もかがやくように息づいている。うふふと笑いながら腕が鳴った。脳内革命を起こしたように、ジンジンとしびれた。 そんな2015年カレンダーでは、少しソフトな民芸デザインが再登場する。地に足をつけて、生きていることを表現するために。と、まあ立派なことを言うほどのものでもないのだが、たかが…、されど…、エスニック。これがなくては始まらなかった、ゆいガイアの原点だ。 さて、2015年カレンダーも、ネパールの山々を超え、海を越えて無事にまた届けられました。生きとし生けるもの全てに尊いいのちが吹き込まれている世界を、一枚、いちまいに、表現しました。そのぬくもりをカレンダーで感じ取っていただければ、幸いです。ゆいガイアの「いのちのかがやき」、ぜひお手にとってご覧ください。 ゆいガイア 井林昌子 |
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